以前のエントリー(2010年2月28日のエントリーを参照)でも書いたのですが、
やはり「説く」というのは大きな意味をもつのかもしれないと思っています。
用語では「訓話」というのですが、
多くの生徒には「雑談」と言われるのが悲しい所ではあります。
当然といえば当然だとは思うのですが、
「現代文」という科目名であれば、生徒は「現代文」を学ぶ覚悟で心構えをしまして、
「英語」ならやはり「英語」を学びに来るのです。
「あぁ、今日英語の授業がある」「今から英語の授業やなぁ」っと言うのは当然でしょうか。
でも、私の目指す所には
「あぁ、今日Hinkの授業がある」「今からHinkの授業か」
と、「英語」だけではなく、私自身から何かを学びとって欲しいと考えています。
「英語」という言語がひとつの手段であるように、
私にとっての「英語の授業」も教育のひとつの手段でしかありません。
こんな未熟者の若造から何を学ぶのだ とお思いになるのもまた当然ですが、
それでもなお、
それも今の私にしか出来ない授業や教育なのではないかとポジティブに考えます。
他の誰にもできない、私にしか出来ない授業を是非ともやりたいと考えています。
もちろん、指導要領や学校や学年方針には決して反しない形で。
それに、「英語」そのものを学ぶ事も、もちろん必要です。
自分のこういった思いや、人生や考え方を少し長めの時間をとって、授業中に話しますと、
話し終えた後に、クラスの中で拍手が起こりました。
卒業前の最後の授業とか、特別な時間をとっての学年集会や講話の時間でもなんでもないのに、
拍手をしてもらえた事、素直にとても嬉しかったです。
いつまでもアツイ情熱をもって仕事を続けたいものです。