金曜日の朝一にエッセイを書きました。
事前にトピック/テーマについては知らされていて、
メモは持ち込み可。(参考文献は持ち込み不可)
タイトルはその場で発表、1時間で書いてねー。って感じで…。
そのフィードバックが今日月曜日にありました。
丁寧な先生で一人一人にきちんとフィードバックをしてくれます。
しかもこの先生、初日に
「英語講師してて、これからも英語教師目指すの?ならば、厳しくみてあげる!
多くの日本人はミスをしたり、それを指摘されるのを恥ずかしがるけど、
良い機会なのだ!英語を上達させる良い機会!有効に活用しなくちゃ
」
と仰ってました。
これには心から同意。
私も小中学生の頃は間違える事はダメな事だと思っていました。
高校生や大学生になって、そして自分が教える側になって、
「間違える事は全然ダメな事じゃない、むしろ良いことだ」と思いました。
たまたま書いた答えがあたって、
それを「できる/わかる」と勘違いする方がよっぽど危険です。
まぁ、その先生は何かと「英語教師を目指してるあなたにだから言うけれど」と
優しく丁寧に細かい事まで教えてくれる。
っで、フィードバックの話に戻るのですが、
今は内容というよりも、いかにアカデミックライティングができるかというところを
重点的に見てくれています。
段落構成、トピックセンテンス、文構造、単語の選び方/使い方……
一応全体的に褒めてもらえました。
褒められると嬉しいもんですな…。照れくさいけれど。
褒めてもらえた上で「こうした方がもっと良かったよ」と言ってもらえると、
「そうか、そうしよう。次から気をつけよう」って気になります。
私は自分の生徒にこんな気持ちにさせてあげられてたのかなぁ、と思ったりするのです。
この気持ちを忘れずに、再び教育現場に戻りたいです。
各々のライティングとフィードバックをクラスメイト達と見せ合ったのですが、
10月からも同じ課程に進むクラスメイト(台湾人)が
「どうやったらこんなエッセイ書けるか教えてよ!」と言ってきたので、
「いやいや、あんたも英語教育を専門にするんでしょー!」と返しました。
そしたら、「会話オンリーね(笑)」って返されました(笑)
「じゃ、会話教えてよ!」
って感じです。
教育現場で、実際に生徒達に教えなくてはいけないことは、生きた英語を通して、
(英語そのものだけでなくて)様々な事を教えること
。
アカデミックライティングなんて一部の生徒しか将来的にも必要じゃない気がします。
今日のフィードバックで指摘されたことは、
・"could"と"was able to"の違いをしっかりと認識すること。
・もっとクリティカルに参考文献を活用すること。
など。
クリティカルシンキングは一種の才能が必要だと思うのですよ……。
でも訓練でものばせると思うので、頑張ります。
ところで、このエッセイの中で、
(大学の)学位の価値が下がっていくという事を表現するために、
「運転免許のように…」っていうフレーズを入れてみたんです。
フィードバックで「運転免許ってそんなに簡単なの?」って先生に聞かれました。
「ほとんどの人が持ってるし、就職でもそこまでのアドバンテージはないでしょう」
って言ったら、
「いや、実は運転免許の試験、落ちたんだよね!」って(笑)
まぁ、免許の取得の仕方に違いがありますので、、、
アカデミックライティングの際には
こういう文化的背景も考慮していかなくてはいけないのかもしれませんね(笑)